貴種流離譚としての『星界の紋章』

人類史上、もっとも尊貴な犯罪者だ。きっと演劇になるぞ。

                                        ―『星界の紋章 II』

物語としての『星界の紋章』

以前、『星界の紋章』は神話的構造を志向しており、いわば物語への回帰を示しているというたぐいのことを私は書いた。ここでいう物語とは、あくまでも作品形式としての物語(narrative)であり、筋(story, Handlung)のことではない。うんとひらたくいうと、こうなる。

小説『星界の紋章』の構造は、お伽話にとても近い。あるいは『星界の紋章』はまさしくお伽話である。

星間帝国の王女さま、作中の言葉を借りれば「星界の姫君」と、やはり貴族である少年の逃避行というのは、それ自体がある種のお伽話であるといえる。しかし、私が問題にしているのはそのような個々の道具立てではない。お伽話、物語学の慣用的な云い方に従えば昔話に腹蔵される形式としての物語が、上でいう「お伽話」である。

ただし、トドロフのような、あらゆる文芸作品は物語である、という立場を私が支持しているというわけではない。物語を志向しない小説は存在する。『トリストラム・シャンディ』や『桶物語』における物語とは、はたして何の謂であろうか。しかし『星界の紋章』においては、そこで使われる近代小説の技法(たとえば、作中語られる事柄の時間の先後関係の錯綜や複数登場人物の視点からの構成)にもかかわらず、その基本的な作品の構造は伝統的な物語の特性を有している。このことが、個々の設定にみえる神話的表象以上に、『星界の紋章』に神話の相貌を与えているのである。

そのことを指摘するために、ここで昔話研究で指摘される構造を『星界の紋章』に適応して作品の構造分析をする…ということも考えたのだが、それは『昔話の形態学』でも片手に読者諸氏がなさればいいことなので、本稿では異なる視点から物語としての『星界の紋章』を考えることにする。さしあたっての我々の導きの糸は「貴種流離譚」という概念である。

貴種流離譚とはなにか

「貴種流離譚」は日本文学研究で使われる説話類型のひとつで、字の通り「貴い生まれの者が流れ流れて遠い国までさすらう話」である。説話とは、とりあえず「物語」の国文学界用語だと思ってもらっていい。学会というのはそれぞれある種のオタク業界なので、業界が違うと使う単語が微妙に違ったりする。それで同業者かどうかを見分けるわけである。

閑話休題。

流れ流れて遠い国までさすらうというのは、これは「遠くまでいって苦労する」こととほぼ同じことである。さらに、普通高貴の生まれの人がそんな目に遭うことはないので、遠くへ行くきっかけはたいてい異常かつ不幸な事件である。日本文学、とくに説話にはこの手の話が沢山あるので、わざわざ「貴種流離譚」という言葉が分類のために作られている。

ではいくつか例を挙げてみよう。

 
    *    東下り: 『伊勢物語』
    *  須磨下向: 『源氏物語』「須磨」「明石」
    *  義経流浪: 『義経記』、謡曲『安宅』他

この他継子話にも貴種流離譚に分類可能な話がいくつかあるのだが、割愛する。どれも「高貴な生まれの人が」「わけあって知った土地から離れ」「苦労をしいられる」ということでは同じである。というより、狭い土地での共同体文化以外を知らなかった古代人にとっては、知らない土地へ行くということ、さらには知らない土地そのものが恐怖の対象であり、知らない土地へ行くことそのものが「苦労」であり一大事であった。

また貴種が主人公である説話が、かならずしも貴種流離譚に分類されないことにも注意が必要である。ある話が貴種流離譚となるには「高貴な生まれの主人公が、遠い土地でうんと苦労する」ことが不可欠であり、この構造に当てはまらないものは、多少共通点があっても、貴種流離譚とは呼ばない。

たとえばかぐや姫伝説、『竹取物語』の主人公はどうも天人の世界でも貴人らしく、現世という異界に流謫の身であったことが最後にほのめかされるのだが、彼女自身はまったく現世での苦労というものを体験しない。こちらは「天人説話」の変形であり、貴種流離譚には含めない(天人伝説としては他に羽衣伝説が有名である)。

また海彦山彦説話も、主人公の海彦は天孫ニニギノミコトの子かつのちの神武天皇の父であり、貴種である。海彦は兄の山彦に無理難題を押し付けられて苦労するのだが、彼の苦労は現世の苦労であり、海神の宮にいった後はただ嫁と海神の宝を貰って帰ってくるばかりである。こういうのも貴種流離譚には含めず、異界探訪譚という(海彦伝説と同じくらい古くて、やっぱり有名な異界探訪譚に浦島伝説がある)。

なお遠くへ行く羽目になる事件が、主人公にとって理不尽な事件だと哀れさ100%増になるのでさらによいのだが、上に挙げた例でも、明示的な理由はないものの、深読みすれば「天皇の后となるべき女性と密通し、誘拐騒ぎを起こした」(伊勢物語)とか、「兄でもある天皇の寵愛する女性を強姦し、女が後宮に入ったあとも関係を続けていた」(源氏物語)とか、そら苦労して当然だわという理由でも、別に構わないようである。

つまりは、高貴な主人公が苦労するというだけで同情を買うには十分なのであり、どだい物語の主人公というのは何をしても許される身なのである。

貴種流離譚としての『星界の紋章』

さて『星界の紋章』である。

くどいようだが貴種流離譚の構造は

  1. 高貴な生まれの主人公が
  2. 異郷で
  3. たいへんな苦労をする

の三点からなる。『星界の紋章』はこの三点を完璧に満たしているので貴種流離譚である。□

…だけでは結論として寂しいので少し説明を加えておく。まず「高貴の人」だが、ここは「誰が主人公か問題」と密接に関わるので、アブリアルの怒りをかわないためにも不 用意に深く立ち入りたくない。だがどちらにしても「王女殿下と伯爵公子閣下」は高貴の人であることは、冒頭引用したジントの台詞を待つまでもなく、作品の冒頭から何度となく言及されている(『星界の紋章I』p.112, p.247他)。

次に「異郷」であるが、フェブダーシュ男爵領は、アーヴであるラフィールにとっては、敵対的環境ではあるものの、完全な異郷とはいえないだろう。しかしジントにとっては、真空世界や軌道城館というのは未知の環境であり、はじめて訪れた場所だというだけでなく、正真正銘の異郷である。そこでどのような逆境に彼らが陥るかは、読者諸氏にはなじみ深いことであろうから、ここでは触れない。

一方スファグノーフ侯国、特にクラスビュールは、二人にとって等しく異郷である。さすがに複数の地上世界を知っているジントには、手さぐりながら状況に対処していけるだけの余裕があるが、「衣服の調達」「財布」「シフ」などの異文化接触が、身分の露見する可能性をともないつつ、彼らを苦しめることになる。彼らが「アーヴである」ことが露見した後でも、銃撃戦や追跡劇といった困難が続く。スファグノーフの地表に限っていえば、「アーヴに逃げ道はありません」(『星界の紋章III』p.170他)というのは至言なのである。

加えて主人公二人が行く先々でそのような苦心を嘗めるのは、そもそも人類統合体の理不尽な(ということに作中ではなっているようである)〈ゴースロス〉奇襲のためである。本来負ういわれのない苦労と遍歴を主人公が強いられる、という点でも、『星界の紋章』は典型的な貴種流離譚の構造を持っているといえる。

ところで、主人公二人のうちどちらがより苦労しているかといえば、それはジントである。スファグノーフで実際にあれこれ算段するのも彼であり、ころっとフェブダーシュ男爵家の家臣たちをまるめこむラフィールに対して、実質的に救出を待つほかすべのない環境に置かれて、真空遊泳までするはめになるジントはより苦労しているといえる。

手早くいってしまえば、『星界の紋章』とは本人の自覚はともかく高貴なる伯爵公子閣下が、天上界から来た麗しいお姫様に、これも本人の意思とかかわりなくあちこちひきずり回される羽目になる、という類の貴種流離譚である。作中ほとんどの障害は彼が解決するはめになり、ともするとその原因は彼を護衛しているはずのお姫様なのが一見理不尽極まりないのであるが、貴種流離譚の主人公が苦労するのは物語構造の必然的要求によるものなので、何かあるとジント(ばかり)が苦労するのはむしろ当然なのである。がんばれ。


ところで「それでもラフィールが主人公なんだい」というあなたのために、『星界の紋章』と共通点の多い貴種流離譚のとある古典を挙げておく。実際のところ、貴種流離譚という物語構造を持つ説話や昔話は何も日本に固有というわけではないのである。あなたもこの本を読んだ後ではジントが主人公なのだということにしぶしぶでも同意してくれることだろう。

その古典とは、ホメロスの『オデュッセイア』である。


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作品

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Most recent update: 2/03/2000/
First publification: 7/26/2000/
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