耳物語

アーヴ語における「耳」

アーヴ語には、日本語「耳」、仮名表記では「みみ」に由来すると思われる単語が、すくなくともふたつ存在する。ヌイ nüic[nwi](耳) とニーフ nimh[ni:Ф](大公爵)である。

アブリアルの耳 nüic Ablïarser という作中何度か出る連語でなじみ深い前者が「みみ」に由来することは、自然な連想に助けられて、これを怪しむものは少ないと予想する。しかし後者には納得いかない読者も多いのではないだろうか。

ところが、ハヤカワ文庫JAより既刊の各種関連出版物から得ることができる設定情報を信じれば、大公爵・ニームのラテン文字表記は nimh である。ここでは詳細を省くが、nimh の元の形としてもっとも蓋然性の高い語形は */MIM+V/(Vは任意の母音)であり、意味を加味してもとの語形を類推すると、耳(みみ)のみが可能な語源の候補として残されるのである。

今回は「どうして『大公爵』が『耳』なんだ、納得いか〜ん」という人のために、「みみ」ということばについて簡単な説明を試みる。

上代の「耳」

現代の研究では「耳」は上代に用いられた首長の称号のひとつだと推測されている。すでにこのコラムに紹介した固有名詞からも用例をひとつあげることができる。すなわち皇祖神のひとり・マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト、『古事記』の表記に従えば「正勝吾勝速日天之忍穂耳命」。

『日本書紀』、本来の名称は『日本紀』で最初にこの神名が現れるのは巻第一「神代上」第六段である。ここには本文の他、三つの異文が紹介されるが、この神名にはいささか異動が見られる。いま我々にとって重要なのは、名前の後半部の異動である。ここには、大きくわけて「…アメノオシホミミ(天之忍穂耳)…」(六の本文、六の三)と、「…アメノオシホネ(天之忍骨)」(六の一、六の二)の二つの異形が認められる。

おそらくこの神格は穀霊神であり、「アメノオシホ」以外の部分は修飾部とみるべきであろう。忍穂・オシホとは「多し穂」、「豊かに稔った稲穂の意」(倉橋:1963,34校注)であるとされる。「-ネ」という接尾辞を持つ神名は他にも「アマツヒコネ」(天津彦根、あるいは天津日子根。八王子の一)、「アヂシキタカヒコネ」(阿遲信貴高日子根、賀茂氏の祭神)、「ククキワカムロツナネ」(久久紀若室葛根、新築の家屋の神)などがあり、いずれも古代には有力な神格であった。これらに共通する「ネ」はある種の尊称ないし特定の性質を表わすものと類推される。あるいは訓の通り、「根」、すなわちものごとの生起する根源ないし大地そのものの生産性を表す可能性もあろう。

では「ミミ」にも同じことがいえるのかどうか、そのことが問題となる。

結論を先にいえば「ミミ」は「ネ」以上に確実に、上古にあった権力者への尊称の名残りであり、それも三世紀以前に遡る古い称号であると推測される。論拠は大きく二点存在する。

まず第一の論拠は記紀神話に現れるその用例である。他に「ミミ」を名の一部に持つ記紀神話の主要登場人物ないしその称号を挙げると、

などがある。スガノヤツミミノカミを除くと、これらはオシホノミミノミコトを含めて皇統に関係する神話上の登場人物である。またスガノヤツミミも、スサノオの岳父かつその宮殿の長官(おびと・首)の称号として与えられており、その尊貴さをうかがわせる。

第二の論拠はより決定的である。

すでに「ミミ」には少なくとも二つの表記が存在することを我々は確認した。ひとつは耳の訓によるものであり、もうひとつは万葉仮名「美美」によるものである。

万葉仮名において、イ列、エ列、オ列にそれぞれ二種類の書きわけがあることは、本居宣長以来よく知られている。現代の国語学ではこの書きわけを上代特殊仮名遣と呼び、それぞれに甲類・乙類の名を宛てている。「美」の字は、『古事記』においては多く甲類「ミ」の表記に当てられる。一方、『日本書紀』中、巻十四〜巻十九、および巻二十四〜巻二十七、森博達のいうα群テキスト(森: 1999, 78)において、多く甲類「ミ」音に当てられる字のひとつに「弥」がある(前掲書, 64)。

α群テキストにおける万葉仮名は漢字原音、すなわち唐代北方音に忠実な転写であることが知られている。中国語では当時すでに鼻母音化が始まり美の発音は[mbi]となっていた。しかし森は、有坂秀世「メイ(明)ネイ(寧)の類は果たして漢音ならざるか」(1945)(有坂『国語音韻史の研究』三省堂、1957に所収)に依り、当時の中国語では[mb]と[m]は同一音素として意識されていたことを指摘する(森: 1999, 106)。したがって、万葉仮名で表記される「弥弥」と「美美」は、中国人による音訳のときにも、むしろそのときにいっそう、同じ音価をもつと推論してよい。

ところで、『魏書東夷伝』いわゆる魏史倭人伝中には、「卑弥呼」など、いくつかの音訳された日本語(万葉仮名以前の万葉仮名)が存在する。そのほとんどは当時の小国の首であるが、そのいくつか、たとえば伊都国の首長の称号は「弥弥」である(この項、吉本隆明『共同幻想論』角川文庫版中のリストによる)。

さきの推論により、この三世紀の小国の称号と、記紀における「美美」ないし「耳」は同じ音価をもつことがわかる。このふたつは同一の称号の異なる表記とみて差しつかえないであろう。「耳」がつねに名の最後部に位置し、固有名の成分とはいいがたいこと も、この推論を裏付ける。

この称号「ミミ」の訓がつねに耳であり、かつ『古事記』では訓の部分と仮名による音転写の区分が峻別されることから、称号ミミと身体部位としてのミミは同系列の単語として古代人に意識されていた、と推論することもおそらく可能だろう。しかしここで性急な結論を出すことは差し控えたい。

ともかく、上代の称号として「ミミ」があり、かつその訓として耳がしばしば使われたことをここでは指摘するにとどめる。なお、聖徳太子の和諡「ウマヤドノトヨトミミ」(厩戸豐聰耳)とこの称号の関係のあるなしも興味深いが、本稿の性格上、この問題に立ちいることはしないでおく。

根源二十九氏族: アブリアルとその他の氏族の関係についての考察

かくして八王子中では、天孫ニニギノミコトの父であるアメノオシホミミノミコトの名にのみ見える名成分、かつ『古事記』のなかではほぼアマテラスとその一族に独占される名成分「ミミ」は、本来は上古の尊貴な称号のひとつである、と結論される。

『星界の紋章』の作品世界において、宮中序列で皇族に次ぐ名流、根源二十八氏族の氏族長であるニーフ・大公爵の語源として、「ミミ」はまさにふさわしい単語である、と筆者は考える。

ところで『戦旗I』では「根源二十九氏族」という表現がみえる。また『戦旗II』でのレトパーニュ大公爵ペネージュの台詞として「年若いアブリアル」という、同情とともに若干の優越心を含ませた表現も現れる。「ミミ」ないし nimh という言葉の持つ歴史と、このような作中の表現、とりわけ「根源氏族」という表現は、他の根源氏族、とりわけその族長たる大公爵にとっては、皇族とはたんに皇帝位を世襲することになったかつての同輩の眷族にすぎず、皇帝すら政治的意義はともかくとして本来同列たるべき存在として意識されることを示唆しないであろうか。

かつてこの称号を使ったことがあるらしい大和朝廷もまた、大氏族の長の連合体として成立してきたことを思うとき、史的事実はともかくいちどは皇族とその縁者にのみ独占されようとした称号「ミミ」を、ふたたび各氏族の長たちに与えた作者の精妙な言語感覚とフモールにも感銘を覚える。あるいは、ここで称号・ミミのもうひとつの意味を皇族アブリアルの家徴のうちに保存し、そのことで彼等の本来の同等性を暗示させる作者の隠し味に我々はより強い諧謔を見出すべきなのかもしれないが…エルフ耳の女の子を出したいという動機がそれよりもまず先に作者にはあつただろうという私の直感は、あまりにも作者森岡氏に対して不当でしやうか?

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本ドキュメントは森岡浩之著『星界の紋章』『星界の戦旗』および関連著作物に基づいてアーヴ語を再構成したものです。

このペイジ中の語源の再構成および語釈・文例・文法についての情報は、すで に作者森岡氏によって公にされた一部のものを除き、編者 Sidryac Borge=Racair Mauch の独断と偏見によるものであり、森岡浩之氏の一切関知するところではありません。御留意ください。

First publification: 7/13/2000
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